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最近の日記::不便なターミナル

  • 2005年2月23日(水曜日) 12時19分
  • category:鉄道話
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 今日は軽めに、yasさんの疑問に答えようと思います。西武鉄道の各ターミナルは、何故JRの駅から離れた所にあるのか。まずは歌舞伎町駅とでも呼んだ方がよい西武新宿駅から。これは、本川越の話とも繋がってくるのですが、新宿線の全身となった旧西武鉄道(開業時は川越鉄道)の成立にまで遡ります。

 川越鉄道はその成立が明治28年と古く、実は川越に初めて通った鉄道でもあるのです。埼玉県下で最も早く市制が施行された川越市に、鉄路を導いたのは何と川越鉄道だったのですね。元々、新河岸川などの船運が盛んだった川越地方は、鉄道の敷設に大反対だったらしく中心部への進入を拒み、今の本川越の位置に駅が出来たのです。

 川越鉄道は川越から当時開通したばかりだった甲武鉄道(現在のJR中央線)が大部分の資本を投入し、主に川越の物流を国分寺経由で都心へと運ぶ役割を担い、殆どの業務を甲武鉄道へと委託していた様です。開通直後こそ厳しい経営状態だった様ですが、鉄道の利便性が理解されてくると船運から徐々に物流が流れてきて、川越鉄道は安定した配当を出せる程に成長します。

 そうなると都心からの距離や人口の多さに目を付けた他の会社が次々と参入してきて、大宮との間に川越馬車鉄道(後の川越電気鉄道→西武大宮線)が明治35年に、東上鉄道(現在の東武東上線)が大正3年に開通します。そして第二次大戦が目の前に迫った昭和15年、漸く国鉄川越線が開通します。それぞれが別の位置に駅を設けたため、相互の乗り換えは不便だった様ですが、国鉄の川越西町駅と東上線の駅が統合されて川越駅となり、それまで川越駅を名乗っていた西武鉄道の駅は本川越と改称されるに至りました。

 という訳で、本川越は川越の中心部に駅が作れなかったのが後々まで響き、現在のように川越駅とは離れた立地になっているのです。この川越鉄道の成立を見ても判る通り、当初は川越の物資を国分寺を経由して都心へと運ぶために作られた鉄道ですから、その路線は川越~国分寺間でした。ただ、そこに武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が大正4年に都心直結のルートである飯能~池袋(当初は巣鴨がターミナルの予定だった)間を開通させると、川越鉄道は特に所沢以西の客貨を武蔵野に奪われる形となりました(武蔵野の通る入間市は当時物流の集散地で、狭山市から川越市に至る川越鉄道に大きな打撃を与える結果となった)。

 そうなると川越鉄道は急激に収支が悪化し、配当を出すどころか赤字寸前にまで業績が転落していきました。手をこまねいて見ている訳にもいかず、急遽東村山から分岐して都心へと向かう新線を建設する事になります。それで誕生したのが現在の西武新宿線の一部である東村山~高田馬場間で、これは昨日書いた様に昭和2年の開通です。武蔵野との交点に駅を作るべしと、お上からのおふれがあったので武蔵野の所沢に並ぶ形で駅が出来ました。この駅は西武、武蔵野共同管理の駅だったらしいのですが、両社の仲はとても悪く、お客の取り合いで駅員が殴り合いの喧嘩をした事もあった様です。

 この新線は将来の新宿延伸を目的とし、それは戦後昭和27年に果たされますが、その時は経済状況も悪くあくまで仮駅として現在の位置に西武新宿駅を作りました。西武鉄道としては、新宿駅ステーションビルの2階に突っ込む形で新宿乗り入れをしようと画策していて、昭和30年代には改札のラッチを運び込んだりするまで進展していたのですが、結局1面2線で6両編成のみ収容という、その後の人口増加を考えると規模の拡張が難しいだろうという理由で新宿延伸は見送られ、現在の西武新宿駅ビルが造られました。

 この様な理由で新宿もまたメインターミナルから離れた場所に駅が作られてしまい、またその後バブル期に地下急行線が計画され、そのターミナルは丸ノ内線新宿駅直下まで伸びる予定で進んでいたものの、バブルの崩壊により建設費が凍結しその計画も現実のものになる事はありませんでした。西武新宿線は、片方のターミナルは建設が早すぎ、もう一方のターミナルは遅すぎて、不便な起終点を持つ事になってしまった、悲しき路線なのです。

↓ここから続き

コメント(4)

コメント36yas

 ありがとうございます。
 長年の疑問が氷解いたしました。
 わたしは西武が自分ところお客を取られたくないために、意地悪をしているんだなぁ、なんて悪意を持って考えておりました。以後、改めます。

 秋津駅と新秋津駅が、微妙に離れているのも、きっと深淵なる事情があるのでしょうね。同じ関係の、北朝霞駅と朝霞台駅がほぼ交差地点に駅があるのとは違った事情が。

 朝霞といえば、朝霞の南側で東武東上線は大きく北上し、さらに西にカーブします。これはこのあたりの地権者が、志木の駅前に住んでいる人だったらしく、土地売却の条件として自分の家の前に駅を作れと東武に命令したからだといいます(そのおかげで志木北口の開発は遅れに遅れました…。丸井が出来る前までは、北口を降りるとすぐ目の前に、民家がありました)。また、志木駅は新座市にあり、本当は新座駅としなければいけないところなんですが、その地権者の住所が志木市にギリギリ含まれていたので、志木という駅になったという逸話も残っております。
 鉄道って、ありとあらゆるしがらみの中で、出来ていったモノだという一例ですね。

 新河岸川があのあたりの物や人の大動脈だったのですね。なんとなく理解できるなぁ。新河岸川が流れる志木市の市役所は、新河岸川のすぐ横にあり、ここが荷物の集積所だったという記録を読んだ事があります。現在では駅からすごい離れていて、めちゃくちゃ不便な立地になってしまいましたが。
 なるほどです。

  • URL
  • 2005/02/23 09:48
コメント37yas

 板違いの話題で申し訳ない。
 どれどれとその他の市役所の立地を調べてみたら、我が富士見市も新河岸川のほとりに、そしてかの大川越市にいたっても新河岸川のほとりにあるじゃないですか!!んー、素晴らしい。見事だ。
 地図から歴史を読みとるっていう作業、楽しいなぁ。
 楽しい視点を与えてくれた、怠惰屋さんに感謝。

  • URL
  • 2005/02/23 11:05
コメント38いけ!レッズ!!

とても興味深くて面白かったです。私が子供の頃に思い描いていたイメージと実際の敷設順とは逆だったのですね。
駅前開発された川越駅周辺よりも、電柱を地下に埋めて城下町色を守ろうとしている本川越駅周辺の方が、まさに「本」川越かもしれません。その辺りに本川越の意地を感じます。
所沢駅の幅が広い(線路数が多い)のも単に池袋線と新宿線のターミナル駅だからということではなく、仲の悪かった鉄道会社同士の近くて遠い距離感、そんな名残でもあったりして…と妄想が膨らみます(笑)。

  • URL
  • 2005/02/23 14:57
コメント107憤れ千葉線ユーザー

2006年(平成18年)12月10日、京成電鉄で大規模なダイヤ改正が行われましたが、日中時間帯に千葉線と新京成線との直通運転開始により終日運用されていた。京成上野~千葉線方面の電車が日中時間帯の運用休止によって減少され、「新京成線(松戸)~千葉中央間」「京成津田沼~ちはら台間」の運転体制となり、京成津田沼駅発着ホームが、従来の京成ホーム(南側、1.2番線上り線ホーム着)(中、3・4番線下り線ホーム発)から下り線ホーム北側、新京成ホーム(5番線)発着になり、幕張本郷駅で、従来のホームへ発着する列車が無く、従来の京成ホーム(南側、1.2番線上り線のホーム)へ(中、3・4番線下り線ホーム)から、連絡橋の使用を強いられ乗り換えが不便にされてしまい、不快適にされ千葉線は余計不便なって運転体制と

  • URL
  • 2009/02/21 18:11
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  • 昭和39年の開業以来、日本の大動脈として活躍を続ける新幹線というシステムは、最高時速300km/hで走行しながら最小運転間隔3分半という、驚異の輸送機関である。本書では、この新幹線がどの様にして形作られ、そして安全に運用されているのか知ることが出来る。筈。
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