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鉄道話 Archive
大鉄道博覧会
仕事絡みで、今日江戸東京博物館に行ってきた。会場内では「大鉄道博覧会」と題されたイベントが行われていて、仕事絡みとは言いながら、完全に趣味者の目つきで彷徨いてしまったのだけれども。会場内では、東海道線全盛期の展望車を復元したものや、沢山の車両模型などが展示されている。あんまり広さはないものの、密度は濃いし十分楽しめるものだと思う。
その中に、宮下洋一氏の情景模型が展示してあり、これはやはり何度見ても唸るしかない。幼少の頃、鉄道模型趣味の誌面を何度も飾った氏の模型は、半端ではない完成度を誇っていた。宮下氏の仮想鉄道である「中越地方鉄道」が載っているTMSは、ボロボロになるまで読み込んだっけ。自分の腕はたぶん一生追いつかないかも知れないけれど、いつかこれに近い模型を作ってみたいという気持ちだけはずっと燻り続けている。
その詳細は、この本に凝縮されてます。ご興味のある方は、是非一度手にとって見て下さい。宣伝でした(笑)
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箱根ゴールデンコース
先月のある日、遅い夏休みを一日だけ貰って箱根へ出掛けてきた。箱根ゴールデンコースを踏破しようという目論見だったのだけれど、調べてみると残念ながらロープウエイの早雲山~桃源台間が架け替え工事のため休止中との事で、早雲山までの旅程となった。
往路は当然VSE狙い。デビューからそれ程時間が経っていないという事もあってか、平日とはいえ2週間前でも前展望は軒並み満席。それでも後展望にはそれなりに空きがあったので速攻で予約を入れた。話は少しずれるけれど、小田急は携帯からでも特急券の購入が出来る様になっていて、沿線に住むサラリーマンにはとても好評の様だ。ターミナル駅で列を作らずとも、会社に居ながら、飲み屋に居ながら、帰りの席を確保出来る。これは素晴らしいと思う。
VSEはとても美しくデザインされていて、それは外装だけでなく内装も手抜かりが無く感じられた。聞けば日本人デザイナーグループの作らしく、いやあ工業デザインも頑張ればここまで出来るんだと再認識させられた。そして、VSEでは紅茶のサービスが再開されたのも、特筆すべき出来事。全国の列車からフードサービスが姿を消していく中で、短時間ながらもこうしたサービスがあるのは利用者にとっては有り難いこと。鉄道会社としても、コストを掛けるだけの実利が取れるかは判らないだろうけれど、スペシャルな感覚の演出が必要だと小田急は考えたのだろう。
展望席からの眺めはとても良く、車窓風景をゆったり見られてとても気分が良いのだけれど、VSEは振り子制御を採用しているからか曲線部分では随分と車体が傾いて、ちょっと変な気分になった。乗り物酔いしやすい人は、後展望席は避けた方が無難かも知れない。あと、スーパーはこねは新宿を出て次に停車する駅が小田原となり、随分とまあ飛ばすダイヤだなと思いきや、スジが思いっきり寝ていてあんまり高速走行する区間が無いのが、残念と言えば残念。
箱根湯本からは、箱根登山鉄道に揺られる。平日ながらここも凄い人手で、VSEを降りて乗り換えようとした列車がたまたま2両編成だったから車内は通勤電車なみの混雑。それでも運良くかぶりつきのクロスシートを確保出来て、ガラス越しに、暫し登り続ける路線を眺める。この日は往復ともにベルニナ号のお世話になったのだけれど、出来ればモハ1に乗りたかったなぁ。途中駅ですれ違い吊り掛けサウンドを少しだけ堪能。
強羅まで40分強の道のり。距離的にはそれ程遠くない筈だけれど、何せ最高速度が20キロ程度だからそりゃ時間が掛かるのは当然。強羅に着いたら、今度は箱根登山鉄道のケーブルカーに乗り込む。この路線は、ケーブルカーとしては珍しく中間駅を4つも有し、観光色だけでなくそれなりに地域の足として活躍している感がある。こちらは終点まで、約10分程度で到着。
早雲山からは箱根ゴールデンコースのトリとなる、ロープウエイに乗り込む。随分と真新しいゴンドラが出迎えてくれて、よく見るとまるでスキー場のゴンドラのよう。新しいのは良きことなのかも知れないが、ちょっと風情は感じられないな。しかも私極度の高所恐怖症だから、ハッキリ言って余り乗りたくなかったというのが本音(笑)。しかしこれに乗らずしてコースを完遂した事にはならないから、歯を食いしばりながらの乗車となった。
大涌谷に差し掛かると、それはもう素晴らしい絶景で、まるでロールプレイングゲームの一場面を見ているかのよう。僕は脂汗を額に浮かべながら、手摺りにしがみつきながら何とかデジカメのシャッターを切る。いやはや、もう限界。
終点でお約束の温泉たまごを買い込み、硫黄の匂いが立ちこめる中しばらく体を休めて、帰りは小田原からJRで。桃源台までは行けなかったけれど、久しぶりに箱根を満喫した良き一日でありました。
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中央東線日帰りの旅
先週末、甲府にちょっと野暮用があったから南武線に揺られて立川経由でそっちへ向かった。ゴトゴトと走る南武線の205系は随分と枯れてきて良い感じだ。特に山手線あがりの個体はやれかたが半端ではなく、シートのスプリングは抜けているし、モーターの唸りも大きくてまるで釣り掛けの様な盛大な音量を発しながら走っていたりする。まあ、南武線にはピッタリとくる車輌な訳で。
路線の一部は高架化されて近代化されたけれど、まだまだロングレール区間に占領されている筈もなくジョイント音を刻みながらちんたらと小杉から立川まで、十分に南武線を堪能した。通勤で乗るのはホントに勘弁して欲しいなと思うのだけれど、こうして休日に空いた車内でゆったりと味わうのはまた別な味わいがあって良い。何はともあれ、立川で跨線橋をまたいで中央線のホームへ。
やって来たのはこれまた古めかしい201系。回生ブレーキ装備の省エネ電車、国鉄らしからぬブラックフェイスを纏い、颯爽と登場したのはもう27年も前のこと。空気バネ台車の根元はギシギシと安宿のベッドの様な音を常に発し続け、見れば車体の塗装は部分的に錆が浮いてきて凹凸が見られる。それでも、鉄の台枠から頑丈に組み付けられた感じがする車体は多少古びても骨格がしっかりしている感じがして、最近の電車には無い安心感を得られたりもする。八王子まで、10数分の旅。
201系を降りて八王子のホームで暫し待つと、漸く待ちこがれたE351系とのご対面! と思ったのも束の間、停車時間はごく僅かだからそそくさと乗り込み、席についてぐるりを見渡す。車内は、最近のこうした優等列車の枠から大きくはみ出す事はない無難な作り。強いて言えば、席のテーブルなどの設備が少し劣るのが(振り子だから仕方ないのかも知れないが)残念と言えば残念。ただ、走りの方は軽快で、去年乗った381系とは比べ物にならないくらいスムースな傾斜で、着席していると本当に振り子車輌なのかと疑ってしまうくらいだった。
八王子を出て山間に入り、くねくねとした山道をスイスイと走り抜けたスーパーあずさは、僅か1時間足らずで僕を甲府まで届けてくれた。早いし乗り心地も十分だと思うのだけれど、“鉄”的には何かが足りない印象。メカの目新しさはもう無いし、かといって速度的に強烈な輝きを放っている訳でもなく、デザイン面での斬新さがあるのでも無いと。これでコストが高くて今ひとつスピードアップに貢献出来なかったというのだから、東日本が中途で製造を打ち切ったのも無理のない所で。ま、こうした特異な車輌は常にそうした評価を得る運命にあるのかも知れない。
帰りは、野暮用を終えて猛ダッシュでバスに乗り込み、何とか最終の“臨時かいじ”へ間に合った。何と某クラブのサポーターのためだけに仕立てられた臨時特急は、E257系という汎用性に富んだ車輌が使われ、静かにホームへ滑り込んできた。この形式は窓が大きく、昼間ならば景観を眺めるのにピッタリだと思うのだけれど、いかんせんこの時は既に日が暮れていたし自分も疲れていたからグッタリとして、発車直後に眠ってしまったから印象は殆ど無い。ただいつも思うんだけど、東海の373系を上回るシートを持つ車輌ってあるのだろうか? あれに18切符で乗れてしまうのは、どう考えてもオーバークオリティだと思うのだ。
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小田急9000系
そんなに生家と離れた場所を走っている訳でもないのに、小田急はあまり馴染みのある路線ではなかったのだけれど、末端に最高の観光地を持つ事に相当の憧れを持っていた。ロマンスカーがその代表的な存在ではあるものの、箱根登山鉄道に乗り入れていたり、相模大野での分割併合など、趣味的な目線でも十分に興味深い存在だった。その中でも最も僕が好きだったのが9000系だ。
地下鉄線内へ乗り入れるために高い加減速性能を要求されながら、一方では山線をすいすいと登って行かなくてはならないという、鉄道車輌としては厳しめの条件下で開発された9000系は、随分とコストを掛けて作られたんじゃないかと、スペックを見ていると何となく想像出来る。
主電動機出力は110kwと少し小さめながら、6両と4両とで組成された千代田線乗り入れの10両編成は8M2Tの強力編成を組み、地下線内では高加減速性能を発揮し、地上線では高速性能と登坂性能を併せ持った、いわばオールラウンダーと呼べる存在だったと思う。このあたり、前回書いた西武101系と少しだけ通ずるものがあるのではないだろうか。そして9000系の特筆すべき所は、ブレーキ装置にある。
基本的にはこの頃の新性能車におなじみの電磁直通空気ブレーキを採用していて、それに発電制動と回生制動の両方を付加していた。アルファベットで表記すると、HSC-RDとなる。9000系は、制動開始時の速度でどちらの制動が利くのかが決まっていて、75km/h以上だと発電制動が掛かり、75km/h以下だと回生制動が掛かる様になっていた。これは当然、発熱を押さえたい地下区間では抵抗器を使わないという事を意味し、地上に出て高速運転をする際には、より安定したブレーキ力を出すために発電制動を用いたという事だ。少し無駄にも思えるこうした装備が、9000系という車輌を色づける。
小田急ではじめて界磁チョッパ制御を採用して、満を持して相互直通運転に入った9000系は、側面のデザインこそそれまでの小田急車輌を踏襲していたけれど、正面は貫通型を維持しながらブラックフェイス化され、国鉄201系を含むその後10年の電車デザインに大きな影響を与えた。
最近廃車が進む9000系は、初物を多く搭載した高コストの車輌で、おおよそ沢山作られる類の車輌でないのは明らかだ。事実、乗り入れ対応用の90両が作られただけで製造は打ち切られてしまっているし、彼らに残された時間はそう多く無いとも思う。だけど、こうした傍目からには無駄とも思われてしまいそうな車輌ほど僕は心惹かれてしまうし、無駄が多いほど面白いのは人生と同じだから。
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オーバークオリティ
個人的な嗜好を述べさせてもらうならば、やはり急峻で狭隘な山岳地帯を縫うように登り詰める路線が好ましく、尚かつそこを力強くぐいぐいと突っ走る鉄道の姿がとても好きで。喘ぐように登る機関車牽引の列車よりも、それがためだけに専用の運動性能を与えられた電車が、いとも簡単に登っていく姿がずっと昔から憧れの対象だった。
恐らく、地元を走る西武鉄道秩父線がその嗜好を決定づけたのだと思われる。中間電動車の床下に主抵抗器をずらりと並べ圧倒的な放熱を誇った101系は余りにも頼もしく、秩父線は連続25パーミル程度の勾配だからそこまでする必要があったのかは判らないけれど、とにかく当時狭軌では最大級150kwの主電動機を積んでローギヤードにセッティングされた彼らは、武蔵野のどこまでも続くかと思わせる平野だろうと、正丸の険しい峠だろうと、常にモーターを唸らせて走っていたっけ。
101系が持つ力強さはやはりその主電動機容量によるところが大きく、平坦路線ではその力を持て余し気味で少しでも雨が降ると覿面に空転した。基本的にMT比は1:1で設計されていたから、どうしたってモーターに掛かる負担は大きくなるだろうし、でもその無駄な感じというか、そうせざるを得ないという所に心を擽られるのだ。機械を好む男の子の性か、ギュウギュウに密集した床下機器を見たり、運転席直後の窓にかじりついて眺めるマスコンハンドルの抑速ノッチを見たりすると、なんて格好良いのだろうと感嘆の声を上げてしまう。
僕の鉄道に対するスタンスは一事が万事こんな感じだから、電車に関してはオーバークオリティであればある程、良い。特に、下回りのギ装やスペックには極端なほど強い関心を示す。コストと性能の釣り合いが取れたバランスの良い車輌ほど、会社にとっては優れた車輌という事になる訳だからそうした車輌がどんどんと量産されるのは当然だろう。ただやはり、何かを為すために偏った性能を与えられる車輌というのは個性的であり、秘めたる魅力を備えているふうに感じる。
と言うわけで、暇を見つけて好きな車輌の事でも書いてみようかと思う。
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赤い矢
一昨日、小田急ロマンスカーについて書いた。幼い頃に憧れた感情はそりゃ半端なものではなく、どうしてそうなったかと言えばやはり自分の住んでいた沿線が、観光から遠く離れた位置にいたからだと思う。特急型に恵まれない地域というか。
一応西武鉄道にもレッドアローという特急が走っていて、池袋から西武秩父を80分ちょっとで結ぶものだったのだけれど、その実際は半数が飯能・所沢止まりでビジネス利用の乗客が多かった。車内販売こそあったもののシートは簡易リクライニングで、シートバックは小さく、余り快適な車内とは言えなかった気がする。
クリーム色に赤いラインがひかれたその車体は、湘南型を上手く織り込んだ先頭形状と合わせとても女性的なフォルムだった。今考えれば、エクステリアデザインは存外良くできていたと思う。子供受けするデザインでは無いけれど、その車輌が見せるスペシャルな感じは良く表現できていたかなと。ただ一番の問題は、25‰の勾配が続く秩父線を走るにあたって、通勤型の101系と下回り主要機器を共通化した事で、特急型にしては異例なほど歯数比が高く設定されていた事だ。
150kwという、当時(製造初年・昭和44年)狭軌では日本最大級の出力を持つ電動機を持ち、さらに大容量の抵抗器を備えて抑速ブレーキを完備するなど、秩父線を走るには必要十分な装備ではあったが、特急として平地を走るのには極めてローギアードで、80km/hを超えると主電動機の唸り声は極端なまでに大きくなり、しかもそれが継続されるのだから乗客はたまったものじゃない。力があるのは、乗ってればすぐ判ったけど。
登場時は4連で、同じ4連で製造された101系と併結運用も考えられていたらしい。ただそれは果たされる事無く、中途で中間車を製造し6両固定編成を組むようになった。その後、先頭車に付いていた電気連結器も外されてしまうが、6両編成化の過渡期には6連+4連の10両運用もあった。ともかく、101系と性能が同等という事もあったのか、個人的には余りスペシャルな感じを受けなかったというのが、正直な感想。逆にヘッドマークを付けた快速急行“奥武蔵”の方が、土日のみの運用で本数も少なく、乗れる機会が少なくて走っている姿を見ると興奮したような記憶がある。
ただそうは言っても、地元沿線を走る特急型は確かに気になる存在で、ニューレッドアローの10000系が登場し徐々に5000系を駆逐し始めると、何とはなしに乗る回数が増えていった。そうして10000系に乗ってみると、シートピッチは異様に広くなっていて確かに居住性は良くなったけれど、下回りはお古のまま(というより5000系と主要機器はほぼ同一)だから相変わらず五月蠅いし、でもそれが西武の伝統を受け継ぐ感じがしてほっとした様な、残念な様な、複雑な気持ちを持った。
いつの間にか、という感じで西武鉄道の路線上から姿を消していった5000系レッドアローは、一部が富山地方鉄道へ譲渡され2連に改造されて余生を送っている。なんと走り装置は“国鉄”485系のものを流用しているという。地方鉄道で走るのに485系の下回りが合致してるかは知らないけれど、とにかくレッドアローの車体は、ワンマン化されて元気に富山を走っている。元気なうちに一度乗りに行かないと。富山ってJのクラブあったっけか?
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小田急ロマンスカー
子供の頃から小田急のロマンスカーは憧れの的で、特にNSE(3100系)とLSE(7000系)の展望席は垂涎の的だった。その指定席を取るのは相当に難しく、親に何度かねだったものの、結局子供の頃には乗れず仕舞いだった。大人になって一度だけ乗車した時にはそれなりに感激したのだけれど、箱根自体が持つ輝きが自分の中で薄れていったというのもあり、その後小田急の特急車がEXE(30000系)に移行してからは徐々に興味の対象から外れていってしまった。
その渦中、7000系と30000系の間という過渡期に登場したHiSE(10000系)に関しては、だからなのか殆ど興味を持った記憶が無い。10000系は、低重心・連接構造でスピードアップを狙っていた小田急特急車の伝統をうち捨てて採用したハイデッキ構造と、新色を採用したそのエクステリアデザインとが合わさって、余り好きな形式ではなかった。ただ、去年いきなり廃車という話が出たときには驚いたし、その高速バスを真似たハイデッキ構造が徒となるとはと、何だか微妙に切ない気持ちにもなった。
で、そこを見逃さないのが地方私鉄の強さというか、10000系は目出度く長野電鉄に2編成が譲渡される事となり、何と11両連接だったものが4両連接になるという。 こんな感じだろうか↓
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短っ!(画像はRail & Bikesさんからお借りしました)
初代レッドアローが富山地方鉄道で2両編成となり活躍しているし、名鉄を廃車になったキハ8500が会津鉄道をひた走り、SE車(小田急3000系)を導入して失敗した大井川鐵道には近鉄スナックカーと南海ズームカー、そして京阪テレビカーという、関西圏で凌ぎを削った歴戦の勇者たちが仲良く肩を並べて走っている。通勤型ではこうした譲渡例は枚挙に暇がないけれど、最近は優等列車に使用された形式の譲渡例が増えてきて、私鉄ファンとしては面白い状況が出来つつあり、個人的には楽しみが増えて嬉しい。
長野電鉄のサイトを見たら、4両編成連接ロマンスカーの名称を募集しているみたいなので、ご興味のある方はどうぞ。いや、2000系も素晴らしい車輌ですよ。
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西武新宿線と東京メトロ東西線乗り入れ?
明けましておめでとうございます。こちらはゆるりと進めてまいりますが、何卒よろしゅうお願い致します。
さて、そんな正月休みを利用して、普段以上の時間を使ってネットを徘徊していたらこんな話題を目にしました。西武新宿線が東京メトロ東西線と高田馬場付近で乗り入れを行おうとしているらしいという話。まだまだ現実的な段階には入っていない様ですが、実現すれば新宿線ユーザーにとっては捨て置けない話ではないでしょうか。
西武鉄道はどうも地下鉄との相互乗り入れにはかなり消極的で、実際に池袋線が有楽町線との相互直通運転を開始したのは首都圏の大手私鉄では最後発と言っても良い、1998年の事。当然ながら西武鉄道のユーザーはターミナル駅での乗り換えが都心部へ入るための唯一の手段であり、特に新宿線はターミナルの西武新宿駅がJRの駅舎とかなり離れた立地にあるというのもあって、お世辞にも便利な路線とは言えませんでした。
新宿線はJR中央線とかなり狭い距離を平行して走っており、新宿線の駅の方が住居から近いにもかかわらず、バスで中央線の駅まで出てそちらを利用する乗客が少なからずいて、都心部を貫通する中央線の持つ、利便性の高さに後塵を拝しています。乗り入れの実現性がどれだけ高いのかは解りませんが、仮に開通すればユーザーのプライオリティーに変化が生じるのは必然だと思われますし、逆に高いパフォーマンスを発揮する路線へと変貌する可能性すら秘めていると思います。
首都圏にある大手私鉄と地下鉄網はほぼ開発し尽くされた感があって、13号線の開業をもって大規模な新線開発は終焉を迎えるのかと思っていた矢先に飛び込んできたこのニュース。旧西武鉄道が、武蔵野鉄道に負けては居られないと無理をおして作った、東村山~高田馬場をベースにした、陰に隠れがちな西武新宿線が、果たして日の当たる場所へ躍り出る日はやって来るのでしょうか。
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最近の気動車って……
11月の中旬、出張で米子に行った。本来ならば飛行機でひとっ飛び、という感じだと思うのだけれど、僕は個人的に飛行機が嫌い(可能性が低いのは解るけど、事故ったら死ぬと思うととてもとても…)なので無理矢理予定をやりくりして、往復共に鉄道で行くことにした。往路のルートは、新横浜→岡山(のぞみ)→米子(381系スーパーやくも)で、復路は万博記念公園に野暮用があったため、松江→鳥取(キハ187系スーパーまつかぜ)→姫路(HOT7000スーパーはくと)→新大阪(ひかり)という変則的なものだった。
ここで初めて、JR西日本のキハ187系に乗ったんだけれど、これがまあ早いのなんのって。2両編成という短躯で、しかもグリーン車も“喫煙車”も連結していないプレーンな感じの特急は、松江から米子の間にある路線規格の低い単線でも高い速度域を保ったまま疾走を続ける。往路で乗った振り子電車の381系が霞んで見えるほど、制御振り子のキハ187系の車体傾斜はスムーズで、まったくそれを感じさせない程だった。またコマツ製の大出力エンジン(450馬力×2台!)の恩恵は絶大で、気動車のイメージを大きく覆す電車並みの加速度と最高速性能を併せ持っていて、その見かけとは裏腹に走りは“特急”そのものだった。
何でも、米子~益田間ではキハ181系時代と比較して実に1時間近い到達時分の短縮を図れたというし、短距離乗車のお客さんも沢山いる様だ。惜しむらくは、短距離の乗降客が多いにもかかわらず連結面に2枚しかない昇降扉の構造で、降りるお客さんが集中して乗降時間が極端に長く掛かる。僕が乗った時は別段他の理由が無かったのに、7分近く遅延しながら走行していて、俊足利して走行中2~3分の遅れならすぐに取り戻していたのにその貯金を駅で全て吐き出していた。まあ、少しでも鉄道にお客さんが戻ってきている証左なのかも知れず、嬉しい部分でもあるのだけれど。
その韋駄天を鳥取で降りて、向かいのホームに泊まっていた智頭急行HOT7000に乗り換えた。こちらは第三セクターの車輌なれど、5両編成でグリーン車と“喫煙車”も連結されている堂々とした特急。前述のキハ187と基本的な構造はそっくりで、ただ運転最高速度は更に10キロ早い130キロであり、しかも将来のブレーキ増圧などが果たされた暁には160キロ運転も可能な設計らしく、走り出してみたらまたこちらも本当に早い。下手な電車特急じゃ太刀打ち出来ないと思わせるその走りっぷりには痺れまくった。
気動車というとどうしてもDMH17エンジンのイメージが強すぎて、発車直後から唸りまくる動力とは裏腹に全く加速していかない車輌だという先入観が強烈にあったのだけれど、この出張でそれは全て消え去った。もうね、電車と何も変わらない。個人的にはまだ未経験のキハ110あたりも電車並の加減速を繰り返しながら走るというし、こんな車輌で運行出来るならば無理矢理電化する必要性も無いんじゃないかと思ったり。大昔、八高線でキハ35の首都圏色に乗った時には、こんな時代が来るとは予想もつかなかったな。
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103系
僕が子供の頃、首都圏を走る国電各線は路線毎にラインカラーが決められていて車輌もそれに合わせた塗色を纏い(山手線:うぐいす色、中央線快速:オレンジバーミリオン、中央・総武緩行線:カナリア色、京浜東北線:スカイブルー、常磐線:エメラルドグリーン……)とても分かりやすい仕組みだと子供ながらに考えていた記憶がある。今でもこのラインカラーは基本的に守られているけれど、ステンレス車全盛の現在では粘着シートがボディ中央部と幕板部に貼られているに過ぎず、やはり車体全体が塗られていた鋼製車の判りやすさには遠く及ばない。
その国電の代名詞的存在だった103系は、気づいてみればその姿を見る回数が極端に減っていて、よくよく調べてみれば、僕の住む関東圏に残っているのは常磐線にいる20両と鶴見線の3両しかなかった。設計上80キロ以上で走るのにはかなり不向きな103系で6M2Tの強力編成を組み、半ば無理矢理に爆音を轟かせながら突っ走り、乗車していると常に脱線の危機と隣り合わせにいるような感じすらした武蔵野線の103系も、先月全編成が撤退したようだ。
昭和38年から59年の永きに亘り、何と3447両という莫大な数が製造された103系は、名実共に国鉄通勤型電車の顔だった。何かとコスト高だった先代101系を反面教師として、電動車の比率を下げて経済的な編成で運用するように作られた103系は、歯車比を高めに設定して、本来は駅間距離の短い区間で加減速を繰り返す様な路線向けの車輌だった。その目的通り、新造当初は山手線に集中して投入され、その後京浜東北線に入りそれまで茶色一色だった山手線を鮮やかにカラー化していった。
しかし当時の国鉄は路線毎の性格に合致した車輌を作り分けるなどというきめ細やかさがなく(極端に大きな組織だから無理もないが)、なるべくならば同じ車輌を作り続ける事でイニシャルコストもランニングコストも下げて、尚かつ整備性を高めるという考えであったから、駅間距離が短い路線向けに作られた103系も徐々に仕事の場所を増やしていった。その端的な例が中央快速線や常磐線への投入で、常磐線などでは抵抗器が焼き付いたなどといううわさ話も残っているくらい、本当に高速走行に脆弱性を抱えた形式だった。晩年、武蔵野線で何度も乗車したけれど、幾ら電動車比率を高めてもその出自は明かで、うんうん呻りながら何とか定時運行を守ろうとする姿に、感動すら覚えた。
鉄道趣味人にとって、毎日乗るような車輌はなかなか趣味の対象になり辛く、殆どの場合晩年になって数が急速に減りだしてから慌てだすものだ。いつでもそこに居ると思っていた103系も例外ではなく、来年の3月で撤退するらしい鶴見線に、早い内に足を運ばなきゃなと考えていたりする。東海道本線の主だった113系も来年に姿を消す。横須賀線から彼らが居なくなってからもう数年が経ち、JR東日本の鋼製車がゼロになる日も遠くないのかも知れない。
ステンレスやアルミの車輌は丈夫で長持ち、軽くて整備性も良好なのだろうけど、きちんと手入れされた塗装に守られた車輌と比較すると、余りにも無味無色な感じを受けるのは僕だけだろうか。
参考リンク:JR東日本ウエブサイト 注:そうそう、東日本には殆どいないけど、西日本には沢山残ってますから念のため。
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ヲタクが行く、東急小路線の旅
会社に出て、その帰りにふと思い立って遠回りをする事にしました。いつもならば最寄り駅まで歩いてそこから東横線を利用するのですが、今日は会社の目の前にあるバス停から大森操車場行きのバスで長原まで行って、池上線から多摩川線、そして東横へ戻るという奇天烈なルートを通って。

長原でバスを降りて環七を歩道橋で渡ると、すぐに長原商店街が見えてきます。埼玉で生まれ育ち、現在神奈川に住む身なのでこの辺りの土地勘はまるでなく、駅にたどり着くまで難儀するかと思いきや、池上線の路線規模から考えると実に立派な商店街で、並ぶ店もそれぞれ繁盛している風に見受けられて、歩く人も沢山いたので駅までの道程はいとも簡単に理解する事が出来ました。

実は、池上線の旗の台以西を乗車するのは中学生以来の事で、地下になっている長原駅のホームに降りた僕は、かぶりつきを確保しようと、さも当然の如く一番前まで行きました。池上線は現在多摩川線と車両を共通運用で使用していて、全て18m級車両の3両編成で運行されています。23区内を走る鉄道路線としては、異例とも言える小規模な路線です。今日まで、多摩川線と池上線に対しては、殆ど同じようなイメージしか持っていなかったのですが、乗車してみてその認識は大きく変わりました。

やって来た電車は、この路線では新鋭と言える1000系の編成。運良く運転席後ろのかぶりつきが空いていたので、そこに陣取ります。走り出すと、これがまた吃驚する程路線の規格が低くて、高出力モーターを持つ1000系でもスピードは上がりません。蒲田までの間、殆どのが相対式のホームと、ごく小さな駅舎を持つ駅が連なっていて、そのホームへは道路からそのまま階段で上がれる、今で言うと世田谷線の様な印象の世界が繰り広げられていました。途中、池上の駅だけは立派な駅本屋があって改札の付近もそれなりの広さがあり、成る程と唸らされましたけれど、全体として僕が持っていた池上線のイメージは大きく覆されました。

そして蒲田に着くや否や、反対側に止まっている多摩川線の電車へ走り、東横線を目指します。そこに入っていたのはまたも1000系の3連で、新しいのは良いんですが、出発間際に向かいのホームへ入ってきた7600系の格好良さが半端ではなく、一瞬降りようかと迷った程です(前パンの動力車。これが好きな人も結構いると思われ…)。
ただ、走り出すと印象は一変します。同じ車両の筈なのに、速度域が若干高い様に感じられ、車窓風景を見ていると路線の規格が池上線より断然良いです。線形の良さとか、犬走り部分の広さとか、共通運用されている二つの路線でも結構違うのだなと驚きました。子供の頃、目蒲線と池上線は、緑色の旧い車両が走っているというイメージで、何度か写真を撮りに行った事があるのですけれど、当時も両線は似たような路線だなという感覚しか無かったので、今日乗ってみて明らかに異なる感覚を持ったので、自らの不勉強を恥じている所です。
考えてみれば、目蒲線の前身は田園調布を作り上げた「目黒蒲田電鉄」であり、池上線の前身である「池上電気鉄道」を潰しにかかった張本人なのですから、資本の差は歴然、路線の状態が違っている方が当然なのです。東急が管理している以上、現在の両線は良く整備されていますが、その歴史を考えながら見てみると違いが浮き彫りになってきてそれはまた楽しいです。今度は、この両線の歴史について書いてみたいと思います。例によっていつになるか判りませんが。
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模型の軌間
中断期間を利用して、久しぶりにこっちを更新してみようかと思います。今回は模型のお話。前回、鉄道軌間の話を書いてみたのですが、実は模型の世界でもゲージ(軌間)は沢山存在し、特に日本型はその実結構問題を抱えているのです。昔から語り尽くされた事ではありますが、ちょっと追っかけてみたいと思います。
今、市場で最も勢力を持っているのが、1/150スケール、9mmゲージで構成される、「Nゲージ」と呼ばれるものです。聞き覚えがある方は多いのではないでしょうか。(Nゲージの“N”は、9mmゲージ、すなわちnine gaugeの頭文字を取った略語からきてます) 「Nゲージ」は従来、トミーと関水金属の2大完成品メーカーが中心となり市場を形成していて、近年マイクロエースがもの凄い頻度で製品を出す様になってからは、この3メーカーで完成品で世に出される製品の大半を占めています。
キットを中心に展開するメーカーは、ガレージメーカーとも言える様な規模の所から、グリーンマックスといった大手まで百花繚乱咲き乱れ、空で言える様なレベルでは既に無くなっていまして、恐らく100社以上あるのではないかと思います。この辺り、出版業界と似たイメージがありますね。個人レベルで、自分が欲しい車種をエッチングから起こして少数販売する、何て事もよくあります。
さて、この「Nゲージ」ですが、単純にスケールをゲージとかけ算すると、150×9mm=1350mmとなります。あれ、何だかおかしいですね。確か日本の鉄道は半数以上が1067mm軌間を利用している筈。1350mmだと、馬車軌道が最も近く、続いて1435mmの標準軌に近い数字になってしまいます。1067mmの狭軌にはほど遠いですね。
そう、Nゲージは元々欧米の規格であるため、標準軌をベースに、スケール・ゲージともに作られています。日本型へ合わせようとすると7mmゲージにしなくてはならず、そうした規格を導入して外国型との共通性を低下させるよりも、多少の違和感は犠牲にしても汎用性を重んじたのだと思います。(今ならば、ドイツのメルクリン社が作っている「Zゲージ」が使用している、6.5mmゲージの線路を使えばより実際のスケール感に近づけられるかも知れません。)
それじゃあ、新幹線は標準軌なのだし、きっちりとしたスケール感を出せるのでは? と思った方、あなたは鋭いです。しかし、残念ながらこれもまた違うのです。Nゲージの新幹線は、1/160で作られています。何故かと言うと、スケールのまま1/150で作ると、実物が1両25mもある新幹線は異常に大きくなりすぎてしまい、他の車両とのバランスが取れなくなってしまうのです(他には、大きすぎて既存のレールなどでカーブが曲がれなくなってしまうというデメリットもある)。なので、バランスを取るために1/160で作られています。その他、ヴォリューム感のある蒸気機関車も、殆どが1/155~1/160で作られています。結果的に、最も本物と同じ見え方をするのは、京王や都営新宿線の車両、という事になりますね。
Nゲージは車両を正面からよく見ると、かなりの“がに股”になっています。車体に対して、車輪の着く位置が本物よりも外側に位置しているのです。確かにそこを集中して見れば多少の違和感はありますが、Nゲージは元々その小ささを利用して走らせる事を主眼に置いたスケールなので、これまで余り問題視される事はありませんでした。しかし、Nより大きい“HO”ゲージになると、その問題は目を瞑れる範囲では収まらず、そして現実にこれまで長い間議論が繰り返されてきました。
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狭軌と標準軌
日本の鉄道は、明治5年に官設鉄道として新橋~横浜間が開通したのが最初です。維新の風が吹く中、欧米の文化を積極的に、半ば無批判に取り入れた当時の政府は、鉄道先進国のイギリスからその殆どを輸入しました。イギリスが採用していた軌間は標準軌と呼ばれる1435mmでしたが、当時の日本はまだ貧しく、また山間部を通る路線が多い事や地盤が脆弱だなどという理由で、イギリスは日本に1067mmという狭軌を勧めました。これはウェールズの山間部でも採用していました。
そうして日本の鉄道は1067mm軌間が標準なものとして進んでいくのですが、関西の私鉄、特に京阪神間を結ぶ阪急、阪神、近鉄などは、標準軌・複線電化で続々と開通していきます。競争の激しいこの区間で、国が母体となる鉄道省に対抗するために、彼らはスピードや安定性を求めて標準軌を挙って採用し、そうする事で長らく競争に打ち勝ってきました。
それでは何故、鉄道省が狭軌で路線を引いているのに、彼らは標準軌で敷設する事が出来たのか? そのカラクリは、当時の法律に潜んでいます。軌道法と呼ばれる、鉄道を新たに敷設する際に必要となるものがあるのですが、当時は大きく分けて二つ存在しました。「地方鉄道法」と「軽便鉄道法」がそれにあたります(時代ごとに呼び名が変わりますが、ここでは割愛)。
「地方鉄道法」は、根元的な意味の鉄道を敷く事を取り仕切るもので、許認可の敷居が高いです。具体的には、併用区間(車道に線路を敷設する)が無いなど、本格的な鉄道に使われます。もう一方の「軽便鉄道法」は、より簡便に鉄道を敷設する事が出来る様に作られたもので、路面電車やより簡易な鉄道はこちらを使います。関西の私鉄は、この「軽便鉄道法」を拡大解釈して利用し、許認可の敷居が低いこの法律を使って標準軌で路線を引いたのです。
こうして、真面目に法律を運用した関東の私鉄は軒並み狭軌であるのに対して、関西の私鉄は標準軌を採用する所が多くなりました。関東でも標準軌を採用している私鉄はあり、京浜急行・芝山鉄道・北総開発鉄道・住宅都市整備公団・京成電鉄・新京成電鉄・都営地下鉄浅草線・大江戸線らがそれに当たります。ただ、京急以外の路線は殆どが京急と乗り入れをする為に標準軌を選択したのであって、京急のみが関西私鉄と同じく自ら標準軌を選んだ路線だと言えます。
京急は、関東で最も早く電車を走らせた私鉄として有名ですが、その出自はやはり路面電車です。(細かく言えば、品川~横浜間の京浜電気鉄道は1372mm軌間で、横浜~三浦半島を結ぶ湘南急行が1435mm軌間だった。戦時下の大東急誕生時に、京浜側が改軌して1435mm軌間に統一された)ここにも、法規を理由とした差異が認められます。その他、関東で狭軌を採用していない路線は京王電鉄と都営新宿線があります。京王線も元々路面電車として開通し、1372mm軌間のまま現在に至りますが、この1372mm軌間は都電が採用していたもので、元を辿れば馬車が客車を引く馬車鉄道に遡ります。
軌間の話は、路線の歴史や出自に複雑に絡まり合っていて簡単に説明する事が出来ないので、また引き続きやってみたいと思います。
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省エネ電車
前回に引き続き、今度は回生制動についての話。回生制動とは、ブレーキをかける時に発生するエネルギーを電力に回生し、架線へと戻すしくみの事を言います。一躍有名になったのは、昭和54年に国鉄中央線に登場した201系が「省エネ電車」と呼ばれてからです。
時代を遡れば南海高野線の旧型車なども使っていた様ですが、平坦線において日本で初めて回生制動を導入したのは京阪の2000系からで、その後東急7000系や小田急2600系、そしてチョッパ制御と併せて新時代を築く営団6000系が登場すると、大手私鉄各社へ一挙に普及していきました。
それまでの電車は、抵抗制御と組み合わされた電気ブレーキを使っていて、制動時に発生するエネルギーを熱へと変えて大気へ発散していました。昔、まだ電車に冷房がついていなかった頃、窓を開けて外を見ていると駅に停車した時に下からもわ~っとした熱気を感じた事はありませんか? あれの正体は、ブレーキの時に発生する熱エネルギーだったのです。
回生制動は、そのエネルギーを電力へと変換できるので熱の発生を抑えられますし、また電力を再利用するので効率的なので技術的な面がクリアになると挙って採用する会社が増えていきました。ただ、一つだけ問題があって、電力を架線に戻した時に、その電力を至近で使う所がないと回生効率が落ちて、最悪の場合ブレーキがきかなくなってしまう時があるのです。
都内やその近郊路線の様に、電車が短い間隔で走っている場所であれば、ブレーキをかければその前後に居る電車が電力を使ってくれるから何ら問題ないのですが、例えば電車の本数が一時間に一本しかない様なローカル区間になると回生失効(電力回生が出来なくなって、回生ブレーキが落ちる)が頻繁に起きる様になり、怖くて回生制動を使う事が出来ません。
大手私鉄の中でも、長い路線距離を誇る近鉄は、青山トンネル付近の山間部を走る区間を持ち、その長い下り坂で回生失効が起きるリスクを減らすために、普段は回生制動を使う車両でありながら山間部では発電ブレーキ(熱変換する古いタイプ)を使ったりしています。また、高野線という日本でも有数の山岳路線を持つ南海電鉄は、電力を吸収する装置をわざわざ設置して回生制動を使っているのです。
少し遅くなってしまいましたが、これが前回書いた“基本的”というものに反する例です。書いてみて思いましたが、やっぱり僕は文系だ。自分では理解していた積もりでも、こうしてエントリーをおこそうと思うと論理的に説明するのがとても難しく、如何ににわかな知識だったかを思い知らされました。う~ん、やはり僕にはグレーゾーンが似合うな。
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VVVFインバータ
えー、yasさんからご質問頂きました「VVVFインバータ搭載の車両が走るためには、地上側の設備に何か特別な処置が必要なのか」というものにお答えしたいと思います。
回答から先に言いますと、基本的には必要ありません。実は東上線にも少数ながらVVVFインバータ搭載の車両がいまして、それは有楽町線乗り入れ用の9050系2編成、昨年11月に導入された50000系1編成がそれに該当します。また有楽町線から乗り入れてくる営団7000系と07系にも、それぞれVVVFインバータを搭載した編成があります。
それでは、VVVFインバータの解説を。といっても文系脳の僕がまともに出来る筈もありませんから、端折りながら簡単にいきます。VVVFとは「可変電圧・可変周波数(Variable Voltage,Variable Frequency)」の略で、主に電車の交流三相誘導モーターを動かす為に用いられます。モーターの回転数や出力に応じて、その電圧や電流を可変出来る大変便利なしくみです。
それまでの電車は、直流直巻モーターが主流で、一部直流複巻モーターを使う車両もありましたが、制御方式は抵抗制御と呼ばれるものでした。モーターを抵抗で制御する訳ですね、ってそのままじゃねーか。…コホン、小学校の頃、科学の授業でΩ(抵抗)というのを習った記憶があり、基本的にはそれと同じ考えで良いと思います。架線から取った電気に抵抗を介してモーターへと送り、力行(アクセルオン)では前進する力に変えて、減速(ブレーキ)ではそれを熱に変えると。
直流モーターは速度制御が容易で、電車が登場した時からずっと使われ続けていましたが、最大の弱点は整流子という接点を持つ事でして、接点を持つという事はそこが削れたりアークで汚れたり、人の手を介すメンテナンスが不可欠という事になのです。
交流誘導モーターは、軸受け以外に消耗部品が無く、非常に構造が簡単でメンテナンス面で優位にありました。ただ、電車のモーターとして使うには速度の可変をコントロールするのが難しく、近年になるまで使われる事はありませんでした。しかし、日進月歩のコンピュータ技術やエレクトロニクス技術が発展を遂げると共に、高速かつ緻密なパルスでオンオフ出来るインバータ機器が開発されるに至り、遂に鉄道車両に交流モーターをVVVFインバータで制御する車両が登場する様になったのでした。
いやあ、僕にはこのへんが限界ギリギリ(汗 間違った記述もあるかも知れませんが、こんな感じでインバータ車両は続々と増えています。最大の理由はメンテナンスフリーにあり、恐らく今後この趨勢は変わる事がないでしょう。現在大手車両メーカーは直流モーターの製造を行っておらず、部品の供給も難しくなっている様ですから。
とまあ、適当に解説をしてみましたが、基本的にどこの路線だろうと電力が受けられればVVVFインバータ車両は走れます。基本的に、と書いたのは、VVVFインバータというより、「回生制動」を行う車両には少しだけ問題がある場合があるからなのです。VVVFインバータと回生制動はイコール関係では結ばれませんが、構成上ほぼ100%両方を備えている車両が殆どですからこの様な表現になりました。それはまた次回。
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オホーツク連続殺人名探偵
今日は全く鉄ネタじゃないんですが、面白い掲示板スキンがあったのでそれをご紹介。 掲示板に消ゆ
ポートピア連続殺人事件以来、アドベンチャーゲームにはまりこんだ僕にとって、当時小学生にとっては敷居の高かったPC8801でしかプレー出来なかったこのゲームがファミコンに移植された時は、もう心躍る状態でした。軽井沢誘拐案内も移植されればもっと良かったんですけどね。ほりいゆうじはまさに僕のアイドルであり、僕の歪んだ人格はこの時に形成されたに違いありません。
アドベンチャーゲーム好きは今でも変わっておらず、日本のミステリを題材にしたゲームなら何でもやってみたいなと。十津川ものとか、浅見ものとか、現在でも入手可能な良いゲームって何かありませんかね?
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不便なターミナル
今日は軽めに、yasさんの疑問に答えようと思います。西武鉄道の各ターミナルは、何故JRの駅から離れた所にあるのか。まずは歌舞伎町駅とでも呼んだ方がよい西武新宿駅から。これは、本川越の話とも繋がってくるのですが、新宿線の全身となった旧西武鉄道(開業時は川越鉄道)の成立にまで遡ります。
川越鉄道はその成立が明治28年と古く、実は川越に初めて通った鉄道でもあるのです。埼玉県下で最も早く市制が施行された川越市に、鉄路を導いたのは何と川越鉄道だったのですね。元々、新河岸川などの船運が盛んだった川越地方は、鉄道の敷設に大反対だったらしく中心部への進入を拒み、今の本川越の位置に駅が出来たのです。
川越鉄道は川越から当時開通したばかりだった甲武鉄道(現在のJR中央線)が大部分の資本を投入し、主に川越の物流を国分寺経由で都心へと運ぶ役割を担い、殆どの業務を甲武鉄道へと委託していた様です。開通直後こそ厳しい経営状態だった様ですが、鉄道の利便性が理解されてくると船運から徐々に物流が流れてきて、川越鉄道は安定した配当を出せる程に成長します。
そうなると都心からの距離や人口の多さに目を付けた他の会社が次々と参入してきて、大宮との間に川越馬車鉄道(後の川越電気鉄道→西武大宮線)が明治35年に、東上鉄道(現在の東武東上線)が大正3年に開通します。そして第二次大戦が目の前に迫った昭和15年、漸く国鉄川越線が開通します。それぞれが別の位置に駅を設けたため、相互の乗り換えは不便だった様ですが、国鉄の川越西町駅と東上線の駅が統合されて川越駅となり、それまで川越駅を名乗っていた西武鉄道の駅は本川越と改称されるに至りました。
という訳で、本川越は川越の中心部に駅が作れなかったのが後々まで響き、現在のように川越駅とは離れた立地になっているのです。この川越鉄道の成立を見ても判る通り、当初は川越の物資を国分寺を経由して都心へと運ぶために作られた鉄道ですから、その路線は川越~国分寺間でした。ただ、そこに武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が大正4年に都心直結のルートである飯能~池袋(当初は巣鴨がターミナルの予定だった)間を開通させると、川越鉄道は特に所沢以西の客貨を武蔵野に奪われる形となりました(武蔵野の通る入間市は当時物流の集散地で、狭山市から川越市に至る川越鉄道に大きな打撃を与える結果となった)。
そうなると川越鉄道は急激に収支が悪化し、配当を出すどころか赤字寸前にまで業績が転落していきました。手をこまねいて見ている訳にもいかず、急遽東村山から分岐して都心へと向かう新線を建設する事になります。それで誕生したのが現在の西武新宿線の一部である東村山~高田馬場間で、これは昨日書いた様に昭和2年の開通です。武蔵野との交点に駅を作るべしと、お上からのおふれがあったので武蔵野の所沢に並ぶ形で駅が出来ました。この駅は西武、武蔵野共同管理の駅だったらしいのですが、両社の仲はとても悪く、お客の取り合いで駅員が殴り合いの喧嘩をした事もあった様です。
この新線は将来の新宿延伸を目的とし、それは戦後昭和27年に果たされますが、その時は経済状況も悪くあくまで仮駅として現在の位置に西武新宿駅を作りました。西武鉄道としては、新宿駅ステーションビルの2階に突っ込む形で新宿乗り入れをしようと画策していて、昭和30年代には改札のラッチを運び込んだりするまで進展していたのですが、結局1面2線で6両編成のみ収容という、その後の人口増加を考えると規模の拡張が難しいだろうという理由で新宿延伸は見送られ、現在の西武新宿駅ビルが造られました。
この様な理由で新宿もまたメインターミナルから離れた場所に駅が作られてしまい、またその後バブル期に地下急行線が計画され、そのターミナルは丸ノ内線新宿駅直下まで伸びる予定で進んでいたものの、バブルの崩壊により建設費が凍結しその計画も現実のものになる事はありませんでした。西武新宿線は、片方のターミナルは建設が早すぎ、もう一方のターミナルは遅すぎて、不便な起終点を持つ事になってしまった、悲しき路線なのです。
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私鉄の風景
実家が所沢にあるから、西武鉄道を良く使った。池袋線が僕のメインラインだったのだけれど、新宿線も比較的乗車する機会が多くて、小さな頃から新宿線と池袋線の違いを感じていた。新宿線は、池袋線よりも駅間距離が短くて、相対式ホームが多いと。
小田急線を初めて使ったときに、新宿線と駅の感じが似ていると感じて、その理由はまさに駅間距離と相対式ホームの関係性だった。確かに地理的には近いところを走っている両線だけれど、どうしてこんなに似ているのかと疑問に思って少し調べてみたら、どうやら作られた年代が近いからそのあたりに原因が眠っているのではないかと考えて、資料を漁った。
すると、昭和初期の鉄道建設は職人さんの集団が全国を行脚しながら回っていた様で、一年半という超突貫工事で小田急を建設しながら、至近の西武新宿線(当時の西武鉄道)東村山~高田馬場間の工事も行っていたらしい事が判った(完成はいずれも昭和2年4月)。恐らく、かなりの部分で同じ職人集団が工事を請け負ったのだろうと思う。相対式ホームの端に位置する駅舎の形状などはそれが頷ける程よく似ているし、小田急と西武新宿線は半ば兄弟の様な路線なのかも知れない。
そうして見ていくうちに、関東の私鉄には二つのパターンがあると思う様になった。一つは、島式ホームが多くて駅構内が広々としていて、尚かつ駅前広場もそれなりにある、そういった駅が多い路線。もう一つは、相対式ホームと狭い駅構内、そして駅前広場が殆どない路線。前者は東武伊勢崎線や西武池袋線・国分寺線などで、後者は小田急や京王、西武新宿線など。調べてみると、これが面白い。成立年代というか、根本的に違う成り立ちがあったのだ。
会社名に“鉄道”とつく所、すなわち東武鉄道や西武鉄道は、蒸気時代の創立であり貨物輸送なども頻繁に行う路線で、基本的に成立が古い。蒸気時代は火の粉が飛んでくるなどの理由で市街地に路線を引く事を嫌がる住民が多く、路線は総じて民家の少ない所を選んで敷設される事が多かった。貨物輸送を行うから駅構内の面積は広くなるし、民家が少ない所を通るという事は必然的に駅前広場もその名の通り広く取れる。ホームが島式なのは、後年の話だろうけれど都心と田舎を結ぶ関係上、朝は上り夕は下りに乗客が集中するため、ホームを効率的に使うためらしい。
もう一方は、会社名に“電鉄”とつく所、すなわち小田急電鉄や京王電鉄、京浜急行電鉄などは、比較的成立が新しく(京急は古いけど)都市間輸送を主に行う会社で、貨物輸送の比率が低い路線。殆どが開通時から電化され、鉄道自体が浸透してからの敷設なのでその利便性を売りに宅地を縫うように建設された。乗客は当初から多く考えられるので、フリークエンシーの向上を図って駅間距離を短く設定する。人口がそれなりに密集した地域に路線を敷き貨物輸送の比率が低いため、駅構内は必然的に狭くなり、駅前広場も設けられない。京王や京急は、出自が路面電車なのだから言わずもがな。相対式ホームが多いのは、島式だとホームの前後にカーブが出来て速度制限に掛かったりして、きびきびとした運行が出来ないのと、“鉄道”よりも比較的上下線共に混雑が見受けられるから、という事らしい。
普段使っている私鉄各線、どんな風景ですか?
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キャンプドレイク
何だか話があっちへこっちへ飛び火しているけれど、廃線の痕跡を探してまわるのも鉄道趣味においては結構メジャーな存在だと思う。特に終戦直後は、進駐軍の用地接収が相次いで、それに伴って急増の鉄道路線が次々と造られた。僕が知っているのを簡単に挙げていくとしても、小田急本線と井の頭線を短絡して繋いでいた路線や、京急穴守線の上り線だけを奪ってそのまま当時米軍の接収地だった羽田空港まで伸ばした路線や、東武東上線からグラントハイツまで伸びていた路線など、枚挙に暇がない。
この中で京急穴守線の話は特殊で面白い。当時から複線で敷かれていた穴守線の「上り線」だけを、米軍が貨物輸送の為に国鉄から羽田空港までの路線を造るために接収したのだ。しかもこの上り線をわざわざ狭軌へと改軌し、京浜蒲田(当時)構内に平面十字交差まで作り。進駐が終わった昭和27年頃にはこの接収も解消された様だけれど、結局穴守線は元の穴守までに戻ってしまって、羽田空港へは遠いままだった。数年前に京急は羽田空港のターミナル地下まで路線を延長して利便性が極端に向上したけれど、実は終戦直後にその路線の外形は既にあったかと思うと興味深い。
と、京急の話じゃなくて盛り上がっていたのは朝霞方面だったっけ。yasさんの言う「キャンプドレイク」は、恐らく朝霞市役所至近にある閉ざされた米軍の軍用跡地の事だと思う。このあたりは自衛隊朝霞駐屯地があったり、ちょっと軍関連の匂いが強く感じられる所。埼玉ってあまり航空機のイメージが無いかも知れないけれど、所沢には日本初の飛行場跡地「航空公園」があり(しかもここには現役の航空管制塔があるらしい)、入間基地があり、至近な所に福生があり、意外と軍絡みの航空機には縁がある。
また脱線してしまった。話を戻して、東上線沿線にはキャンプドレイクやグラントハイツなどがあり、グラントハイツの方は光が丘ニュータウンの開発が進んでその痕跡が殆ど残っていないけれど、キャンプドレイクはそれ自体がまだ残っていて、中には入れなくても外側を回るだけでも面白いかも知れない。という訳で、今度時間を決めて「yasさんと巡る、キャンプドレイク再発見ツアー」をやる事にしようかと。どうです?
ただ問題が一つだけあって、再来週にはシーズンが開幕を迎えてしまう事。ウラワ鉄研にとってそれは死活問題だし、上手く試合の無い週とかに組み込めれば良いのだけれど。
- 関連リンク:
- http://members.jcom.home.ne.jp/oka3n/page010.html
- http://box1611.hp.infoseek.co.jp/doreik.htm
- http://pirori.exblog.jp/532061/
- http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A7%E5%B8%AB%E7%B7%9A
- http://www008.upp.so-net.ne.jp/tojo/index.html
追記:
今日(21日)発売の弊社刊「レイルマガジン」で、上信電鉄という高崎から出ている私鉄の特集をするんですが、それに「上信デキ重連貨物列車 高崎~下仁田往復 添乗+走行 60分DVD」が付録で付きます。面白いので、是非買って下さい。
以上、宣伝でした。
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◇楽しい◇
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戦時合併の話とか
今JR南武線と呼ばれている路線は、太平洋戦争の半ばまで「南武鉄道」という名前で運行されていて、立派な「私鉄」だった。この路線を南北で挟むように存在している「鶴見線」や「青梅・五日市線」も、それぞれ「鶴見臨港鉄道」「青梅鉄道」「五日市鉄道」という名称を持った私鉄であり、これらは戦時統合の名の下に国に買収され、国鉄の一部となった。
今でもJR青梅線の青梅駅は、青梅鉄道時代に本社として使われていた建物を駅舎としている。この建物の地下には小さいながらも「地下街」が形成されていたと言い、雨でも濡れずに買い物が出来るという触れ込みであったとか、青梅には古くから馬車鉄道が運行されていて、青梅鉄道の開通初期には馬車鉄道と十時に平面交差する場所があったとか、他の私鉄各社同様歴史を感じさせる伝聞は沢山ある。
この南武鉄道を中心とした路線網は、その殆どが旧浅野財閥によって興されたもので、所謂貨物輸送(セメントや川砂利をメインとした)の為に形作られた。旧浅野財閥系の浅野セメントは、青梅・南武の鉄道路線を失ったけれど、現在では合併を繰り返し太平洋セメントとその名を変えて現存している。また、EF15型の晩年を飾った奥多摩から運び出される石灰石列車は、似たような運命を持つ奥多摩電鉄が開通させた青梅~氷川間がその大元となっていて、同じように路線は青梅鉄道と共に国鉄に買い取られたままとなったけれど、それを採掘する奥多摩工業は生き延びた。
戦中期にはこうした国による鉄道会社の統合や買収が全国的に行われ、驚異的なスピードを誇った阪和鉄道や、現在の仙石線であり、恐らく初めての地下駅を建造した宮城電気鉄道など、特色のある鉄道が次々に国鉄へと買収されて、戦後その色は次第に失われていった。また、大東急の様に東急・小田急・京王帝都・京浜が一つの会社としてまとめられたり、地下鉄道の統一化を図るという名目で帝都高速度交通営団が発足したりもした。
この時期は、ベンチャー精神に溢れた志士たちが路線を乱立させた鉄道黎明期からの流れを決定的に断ち、財閥解体と終戦後の復興期を経験していって、所謂近代的な鉄道会社が成り立っていった。また、戦争は狭い日本列島のあちらこちらに軍事拠点を作り出し、それに付随する鉄道路線もまた網の目のように張り巡らされた。現在でもそれを旅客や貨物運用に利用している所もあれば、影も形も無くなっている所もある。歴史から、そんな場所を探して歩くのも鉄道趣味の一つだし、逆に今ある鉄道会社からその歴史を紐解くのもまた、味があって楽しいものだ。
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妄想癖
標準型というのは鉄道車両、特に電気車に於いてそれなりに意味のあるカテゴリーである。古くは東急を中心に使われた18m級3扉の車体があり、バス窓の日車標準型も名の知られた所だろう。そして今、JR東日本新津工場がその発端となり、特に関東の私鉄各社は新造コストを抑えるべく、標準化車両の導入を躍起になって進めている。
JR東日本のE231をモチーフにした相鉄10000系は兎も角として、日車標準型ボディを利用する京王1000系や小田急3000系など、近頃の関東私鉄各社が挙ってデビューさせる通勤型電車はどれも粒ぞろいで、恐らく日常の足に使っている人たちにとっては静かで乗り心地も悪くなく、過不足無いものだから好意的に受け入れられている様に思う。ただ、鉄っちゃんにしてみれば趣味性が低くて面白いものでは無いし、京急の様なオリジナリティを発揮し続ける会社が近くにあるとどうしてもそちらへと肩入れしたくなるのが心情というものだ。
そんな中、僕の地元を走る西武鉄道が同様に導入した20000系は、標準化車体を用いながらも明らかに他社のそれとは一線を画す仕上がりで、こと車両に関しては余り高い評価を得る事の無かった西武のイメージを覆すものとなっている。詳細はリンク先で見て貰うとして、日立の標準型は軒並みレベルが高そうだ。東武に導入された50000系しかり、鈍く光るアルミボディはかえってその質の高さをアピールしているかの様だ。
些細な違いだから気にしていなくては解らない差だし、例えば先頭車両に乗っている時に感じる少しのすきま風とか、ボディの立て付けによる軋み感とか、外装の仕上げだとか、そうした積み重ねが日立の方に一日の長があると感じる。コストを下げた量産型ながらも、一つ一つの精度を大事にしているというか。新津や日車がRX79だとすれば、日立の方はRX77かな。
まあ、こんなどうでも良い事を考えながら、僕は日々外回りの営業に出ている訳で。新御茶ノ水のホームで千代田線の電車を待っている時に、1本しかない207系が来たりするとその日は一日ハッピーだし、同じように営団7000系がやってくるとボディを叩いてご苦労さんと声を掛けたくなったり。会社がお金を掛けて作った車両というのは思い入れもあるし、やはりしっかり出来ているもの。年月を経ても、質の高い車両は古くならないというのが、僕の持論なのだ。
鉄道を趣味にすると、こんな風に日常の移動がいきなり趣味の時間になるからそれはそれで楽しいし、実はお金もかからない。模型や写真を極めようとすれば相応の資本力が必要だけれど、毎日、乗る電車に対して考えるだけならタダだし、何より鉄道を趣味とするには妄想力が必要なのだ。
そうだ、妄想と言えば鉄道趣味には「架空鉄道」というカテゴリーがあって、それは「もしこのあたりに鉄道が通っていたら」とか「もし南武線が私鉄だったら」などと考えたりするもので、力がある人だとそれを模型化したりウエブサイトを作ったりする。そう言えば僕も南武線の全身である南武鉄道がもし国有化されずに今に至っていたら、という仮説を立てて考えた事があったっけ。皆さん、そんな経験はありませんか?
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出発進行!
皆様、こんばんは。ウラワマニア管理人の怠惰屋でございます。私、子供の頃から鉄道が大好きで、それは大方の男の子ならば誰でも一度は通る道だと思います。しかしながら、それを大人になるまで引っ張り続けるのは意外と難しく、仮に好きでも表面的には静けさを保ったままの方が多く、僕もその一員でありました。
気が付けばウラワレッズにどっぷりとのめり込み、趣味に費やす時間の殆どをウラワに捧げてきたこの数年間ではありましたが、そのウラワに絡んで鉄道熱が再燃するとは思いも寄りませんでした。mixiやら、ウラワ系サイトやらで盛り上がりつつある“鉄”の道。これを逃す手は無いですし、ウラワにつきまとっていけば必然的に鉄道は目の前に。
僭越ではありますが、ウラワ系でしかも鉄道系の方々を代表しまして、こんなサイトを作らせて頂きました。特に今のところ「これをやってやろう」という様なコンテンツ案は全くありませんし、アウェーゲームへ行く際の情報ならばmitsukさんという偉大なる先達がいらっしゃいますから、こちらはもっと緩く、情緒的な所に的を絞ってやっていきたいと考えております(更新も緩いよ)
と、言う訳でありまして、何卒皆様暖かい目で「URAWA Rails(by yas)」を見守ってやって下さい。よろしくお願い致します。
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